2018.04.22.
2011年3月11日、中学の卒業式が終わった午後、わたしは実家で家族と過ごしていた。父はテレビを見て、姉と母はコタツで寝てて、わたしはリビングの共用パソコンでニコニコ動画を見ていた。
最初は小さな揺れだった。その頃、地震が多かったから「あーまたかぁ」くらいに思っていたけど、その小さな揺れが長かった。初期微動継続時間が長いとどうなるんだっけ?と思ったら、縦揺れに変わった。縦揺れに変わったことがわかるくらい、縦揺れに変わった。
まずい、と思ってテーブルに頭を入れて、揺れが収まるのを待った。
長かった。お母さんはキッチンのものを抑えていて、お父さんは本棚を抑えていた。
ガシャンガシャンと鳴る何かの音、吹っ飛んだFAXと電子レンジ、「みんないる!?お姉ちゃんいる!?」と叫ぶ母の声、なぜか返答をしない姉、何もかも大丈夫じゃなかった。
なにもかも大丈夫じゃない中、わたしはテーブルの足を掴んで「大丈夫、大丈夫」と言い続けていた。
揺れが収まって頭を出して、窓の外を見たら信号が消えていた。道端で小学生が蹲り、何人かの大人が駆け寄っていった。
電気は途切れ、ガスも止まり、でも水道は止まらなかった。
自分の部屋を見に行ったら、もうぐちゃぐちゃだった。あまりの惨状に父と姉と笑った。
写真で撮って、友だちにメールしようと思って、それでやっと片付けを始めた。
片付けは全然進まなくて、どんどん暗くなる室内でイライラしていた。明かりはつかないし、なんか寒いし、なんなんだろう、なんだこれ、何が起こったのだろう、
その瞬間、部屋がフワッと明るくなった。
顔を上げたら、窓の外で雪が降っていた。
その瞬間、私の世界は終わった。
15歳のわたしが、恐れおののいて焦がれ続けた「世界の終末」のイメージが、ありありと目前に広がってしまっていた。
大好きな友達も、大嫌いな先生も、家族も、みんな、消えてしまえばいいのにと本気で願っていた当時の私は、本当に、本当に世界が終わったと思った。
願いが叶ったと思った。
夜に家族全員で聞いたラジオからは、地震と津波の情報が延々と流れていた。
これからどうなるんだろう、みたいなことはなくて、ただ、電気がつかないのは不便だと、そう思った。
次の日に電気が復旧して、ようやく我が一家は災害の大きさを思い知った。
かつて遊びに行ったことのある場所が、無くなっていた。
消失した。
やっぱり、やっぱり世界は終わったんだと、確信した。きっとここも、きっと終わる。
県内の高校に進学したとき、5月の入学式から始まった高校生活は、「延長戦」だった。
終わった世界の、延長戦。ロスタイム。
みんな、当たり前の振りをして、でもあの日々には、妙な平穏が漂っていた。
ぶつかるとか、歯向かうとか、反抗とか、そういうものが欠落していた。みんな黙って、穏やかに笑って、楽しい日々だった。
高校卒業間際に自転車で見に行った沿岸部には、瓦礫と、荒れ放題の草と、「土地の塩を抜いています」という看板が延々と続いていた。
3年経って、土地の塩を抜いています、かよ。
思わず笑ってしまった。相変わらず、世界は終わっていた。
しかし、しかしである。
東京へやってきた私を迎えたのは、「世界が終わっていない人々」だった。
世界が終わったあの日、わたしの人生から「死ぬ」という選択肢が消えた。2011年3月11日を宮城県仙台市で迎えたにも関わらず生き残ってしまった私は、私が私を殺すことなど不可能だと確信した。というか、私は既に死んでいると思っていた。
しかし東京には、私を生きた人間として見る人がいたのだ。
世界が終わっていない、死ぬことすら自分で選べるという希望を持った同世代に囲まれた。
絶望した。わたしは、未だに世界が終わっていないということに絶望した。
あれだけの地震で、あれだけの津波で、あれだけの土地が消失したのに、世界が終わっていないなんて。
世界が終わっていないなら、あの日々は何だったのかと。どうしてわたしは生き残ってしまったのかと。どうして、死ねなかったのかと。
こんな思いが、年を重ねるに連れ私の心に積もっていく。初期微動から縦揺れに変わるように、段々と私の中で明確になっていく。
わたしはあの日、死にたかったのかもしれない。
死ぬまでいかなくても、せめて、被災者になりたかったのかもしれない。
大きな地震を経験して、でも家の水道は止まらなかった私は、被災者にも、部外者にもなれず、途方に暮れた。
被災者ではないけれど、高校の入学式は5月になって、勉強の遅れを指摘され、でもそれだって、沿岸部の高校に比べれば微々たるもので。
履歴書に高校入学を5月と書くことは困難で、でも4月と書くことも違う気がして。
高校の世界史担当教諭が、そんな私たちのことを「被災地の隣人」と呼んでいた。
このラベリングすらなかったら、私は恐らく今、私の形を保つことがより困難だっただろう。
彼は「被災地の隣人だからこそ、やらなければならないことがある」と繰り返していた。
もっと他に伝えてくれたことがあったかもしれないけれど、私の頭の中に残っているのはこれだけだ。
それでも、大きな財産である。
被災地の隣人になった私は、未だに道に迷っている。やらなければならないことが何か、今もまだ見つけられない。
震災の話が浮かぶたび、自分をどこに位置づけるかすら曖昧なままである。
この「自分が道に迷っていること」の自覚に、7年かかった。7年かけて、ようやく、自分が迷子になったことに気がついた。
わたしはどうしたらいいか、わからない。
あの震災とどう向き合えばいいか、未だにわからない。
どうやって生きていけばいいか、わからない。
手を引いてくれる人も、迷子センターも、まだ見つけられない。
ただ、ただようやく、わたしは私の現状を把握した。そのことが嬉しくて、そのことを残したくて、この記事を書いている。
今も涙が止まらない。なぜ泣いているかはわからない。
いつかわかる日が来るのだろうか。来たらいいなぁと思う。